シャンパーニュ畑風景

我慢の時代から更なる品質向上の時代へ: 18世紀末へ19世紀初頭・・・シャンパンのそうだったのか!⑬

(ルイ16世の時代~フランス革命~第一共和政の時代の困窮)


 ルイ15世(1710年2月15日 生~ 1774年5月10日)の治世在位:1715年9月1日~1774年5月10日)の末期には君主制は硬直化し、人々の生活は困窮していきました。その要因は様々。
フランスに植民地の大半を失わせることになったイギリスとの7年戦争(※1)、高騰する税金、うち続く凶作、食料価格の高騰、失業と犯罪の増加、大量の家畜を失わせた牛痘

 そんな中、天然痘によりルイ15世が死去しました。1774年にルイ16世(在位1774年5月10日 ~ 1792年8月10日)が即位しましたが、君主制がますます専制的になって行き、フランス革命(1789年7月14日)に繋がって行きました。

フランス革命(バスティーユ牢獄襲撃事件)
フランス革命(バスティーユ牢獄襲撃事件)

 そして、シャンパーニュ地方でも状況がにわかに悪化していました。
1776年のアメリカ独立戦争に際しイギリスが海上封鎖をし、シャンパンの販売が急激に落ち込んだのです。さらに旱魃のための凶作、猛暑のための瓶の破裂の増大が不況に輪をかけました。
そして、フランス革命後の第一共和政(1792~1804年)が成立し、教会の所有するブドウ畑は国有化されました。その後、小さな区画に分割されブドウ栽培者に売りに出されたのです。

(※1)7年戦争
 1756年~63年のプロイセン王国とオーストリアの対立を軸に、プロイセンはイギリスと、オーストリアはフランス、ロシアと結び、全ヨーロッパに広がった戦争。 同時にイギリスとフランスの植民地における英仏植民地戦争(第2次英仏百年戦争)も並行して行われ、世界的な広がりを持つ戦争となった。結果はプロイセンとイギリスの勝利となり、ヨーロッパでのプロイセンと地位を向上させ、イギリスの植民地帝国としての繁栄がもたらされた。 この戦争は絶対王政各国の財政を圧迫し、イギリスからのアメリカ独立戦争、フランスではフランス革命という市民革命が起こる契機となった。

(ナポレオン1世・・・シャンパン愛好者であると同時に品質向上の貢献者)

 フランス革命、第一共和政時の混乱でフランス国内がのたうち回っていたのを収拾したのはナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルド、1769生-1821)でした。ナポレオン1世は1804年の即位から1814年の退位まで皇帝でしたが、シャンパーニュに繁栄の時代をもたらしました。
 ワイン産業を奨励し、フランスの各地を新産業地帯を視察して回りました。シャンパーニュ地方にも巡視し、メゾンのジャクソンを訪れて金メダルを授与しています。以来、ナポレオンの赴くところに糧秣車に積まれるようになりました。また、ナポレオンはモエ・エ・シャンドンの当主ジャン・レミの元を度々訪れ、退位の前にはレジオン・ドヌール勲章を授けています。
 ナポレオンは禁欲的で、食事は少量で飲酒も控え気味でした。
そのナポレオンがシャンパンについて「勝利を収めれば飲む資格があるし、敗北なら飲む必要がある」と称賛しています。また、「力を回復させ、気分を引き立てるには一杯のシャンパンがあれば十分だった」と。
 そんなナポレオン1世はシャンパンの品質向上に寄与しています。内務大臣に科学者アントワーヌ・シャプタルを任命し、収穫時にブドウの圧搾機の中に砂糖を加えてアルコール濃度を上げる方法シャプタリザシオン)を提唱しました。寒冷地のためブドウが往々にして熟さないシャンパーニュ地方にとって重要な方法でした。

 そして、フランス領西インド諸島からの砂糖きびからとれる砂糖の入手が困難な時代、ナポレオンはビート(甜菜(てんさい))から砂糖が精製されることをアイデアとして採用し、その研究とビートの栽培を奨励しシャンパンの安定的製造に寄与したのです。

ナポレオン1世
ナポレオン1世

18~19世紀前半 年表
18~19世紀前半 年表
シャンパーニュ畑風景
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