モエ・エ・シャンドン 迎賓館

ナポレオンに愛された最大のメゾン、モエ・エ・シャンドン・・・シャンパン・メゾン②

(クロード・モエによる創業)

 モエ・エ・シャンドンの創業は、リュイナールに次いで2番目の1743年です。
ドイツ出身のネゴシアン、クロード・モエが発泡性のワインに商売を集中させ、1730年にはヴェルサイユ宮殿への数少ない出入りの許可されたワイン商になっています。モエは、ルイ15世の公式の愛妾であるポンパドール夫人に贔屓にされ、あらゆる祝典でモエの発泡性ワインが供されました。

 当時彼が造っていたシャンパンの量は、他の生産者の生産量の合計を上回っていたと言われてもいます。1750年にはボトルの破損の問題があるにもかかわらず、1年に5万本の発泡性ワインを生産していました。赤ワイン中心に年間30万本以上は生産していたことがない時代にです。
当時はボトルに詰めたシャンパンの2割以上は市場に出回る前に破損するのが一般的だったのですが、あらゆる手段を講じてボトルのロスを減らすことに成功し、イギリスやロシア、フランクフルト、マドリードなどに輸出する最大の生産者になったのです。

 クロード・モエはシャンパン製造に生涯をかけ、ヨーロッパ中にシャンパンの名前を広めました

(ジャン=レミ・モエによる発展)

 1792年、ジャン=レミ・モエは祖父クロード・モエの設立したメゾンを34歳で継いで社長となりました。エペルネの市外地フォリー街に邸宅を新築。それが現在のシャンパー ニュ大通りの始まりで、大通り沿いに並ぶメゾンの第一号となりました。
 1794年にはオーヴィレール修道院の建物と畑を買取り、1802年にはエペルネの市長となり革命後の再興に努力しました。彼は、この後100年以上に渡るこの街の経済的繁栄の礎を築いたのです。

 このジャン・レミ・モエはナポレオン1世と生涯の交友を持ちました。ナポレオンが9歳にしてシャンパーニュ地方プリエンヌの王立陸軍幼年学校で学んでいたとき、シャンパンの販売促進の営業にやってきたのがジャン・レミ・モエです。ナポレオンより11歳年長のモエは、ナポレオンの情熱と好奇心に惹きつけられました。

 一方でナポレオンは軍事作戦の度にエペルナにあるジャン・レミ・モエのカーヴに立ち寄ってシャンパンを仕入れたほどです。
 現在、エペルネのシャンパーニュ通りを挟んで立っている迎賓館はナポレオンの意向を受けて建てたものです。

 また、ナポレオン・ボナパルド一族はジョセフィーノ皇后を含めて一族が、頻繁にモエ宅を訪れました。ナポレオンの後ろ盾を得て、モエの事業は発展したのです。
 そして、ナポレオンが退位する数日前の1814年3月17日、ナポレオンはモエを訪れ一夜を過ごし、モエに感謝の印として自分のレジオン・ドヌール勲章を贈りました

 1970年までにリュイナール社、メルシェル社、カサノヴァ社の3社を傘下に入れ、カリフォルニアのナパ・ヴァレーやブラジルにもブドウ畑を買い、さらにコニャックメーカーヘネシー社と1971年に持株会社になりました。そして、クリスチャンの香水・化粧品部門を傘下に置き、ルイ・ヴィトンとも提携し事業規模を拡大しています。

モエ・エ・シャンドン Brut Imperial
モエ・エ・シャンドン Brut Imperial
モエ・エ・シャンドン 迎賓館
モエ・エ・シャンドン 迎賓館

(現在のモエ・エ・シャンドン)

 現在のモエ・エ・シャンドンは巨大なシャンパンメーカーになりました。2019年時点で 年間2500万本もの売上、そのうち2000万本を輸出。シャンパーニュ地方のほとんどの地区に畑を持ち、シャンパーニュ地方で造られるシャンパンの2割弱をモエ・エ・シャンドンが占めていると言います。常勤の従業員は2,000人、地下カーヴは28kmにも及んでいます。
 ちなみに、モエ・エ・シャンドンの名前は、ジャン=レミ・モエの娘アデライデが夫ガブリエル・シャンドンの義兄・ヴィクトルと協力して事業を拡大し、シャンドンの名前が付加されたものです。

 モエ・エ・シャンドンの製品はこれほどの大メーカーであるにもかかわらず、ロゼを含めると5種に限定しています。白ラベルのBrut imperial(ヴィンテージものとノン・ヴィンテージのアンペリアル)が中心ですが、メルクマルク的な存在である「ドン・ペリニョン」があります。「ドン・ペリニョン」は1936年にモエ社の英国進出100年を記念して製造したものです。
 モエ・エ・シャンドンのシャンパンはシックなシャンパンの典型です。爽やかで好感の持てる果実味、ふくらみと豊かな風味を備えています。

ドンペリ
ドンペリ
モエ・エ・シャンドン 迎賓館
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