ランスの大聖堂 Wikipedia 英語版の “Reims Cathedral”

20世紀初頭は苦境の連続だった・・・シャンパンのそうだったのか!⑰

(最大の苦境だった第一次世界大戦)

 1914年に起こった第一次世界大戦はシャンパーニュに甚大な被害を与えました。
この戦争ほどシャンパーニュ地方に大きな影響を与えた戦争はなかったと思えるものでした。

 大戦が起こりその後3年半の間ランスは1051日の間連続で仮借ない砲撃にさらされました。
市民の大半が巨大な石灰岩の洞窟であるクレイエールに避難せざるを得なくなり、地下の貯蔵室で生活しました。村やブドウ畑は爆弾、毒ガスなどによって壊滅状態に追い込まれ、地上にあった全てのものが地下に潜りました。
学校、病院、教会、カフェ、肉屋、パン屋など。洗濯場や風呂場などの共同施設、図書館や運動場もクレイエールに用意されました。

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 最初の5か月でランスの住民の600人が犠牲4000戸が破壊され、ランスの大聖堂も黒く焼け焦げてしまいました。3年半後には市の98%が破壊され、4万戸の家の内残ったのはわずか40戸という有様でした。

 大半のシャンパンメゾンも深刻な被害を受け、仕事をクレイエールに移しました。
状況は厳しく、アメリカのような中立国からは注文が殺到していたものの生産は半分以下に落ち込みました。瓶や砂糖の入手が困難になり、ガラス職人も戦死していました。
ドイツ軍がシャンパーニュを支配下に置いた1914年9月には、手あたり次第にシャンパンを飲みつくしました。

 そして、1918年11月11日、ドイツは連合国との和平協定に調印して大戦はようやく終結しました。
この大戦で総計1300万人の命が失われ、フランスでも150万人以上の兵士が戦死しました。
シャンパーニュでも人口の半分以上が失なわれエーヌ県では3分の2を失ったほどでした。

(遅れてきたフィロキセラ)

 大戦の影響はブドウ畑にも大きな影響を及ぼしました。
ブドウ畑の状況は年々悪化していったのです。影響は戦火によるものばかりではありません。
 フィロキセラ虫害が蔓延しました。この大戦のためフィロケセラの駆除策がなかなか取れなかったためです。
大戦が終了した時点ではシャンパーニュ地方に無傷で残っているブドウ樹はほんの僅かで、根こそぎ引き抜き、アメリカ産の台木で植え直さなければならない状況に至ったのです。

 フィロキセラ・ヴァスタトリクスは、フランスでは大戦の50年ほど前の1862年にローヌ渓谷で発見されました。アメリカから集荷されたブドウ樹によってフランスにもたらされたのです。
その後、ローヌからから北上しブルゴーニュを通り、南フランスにも侵入、ボルドーのブドウ樹を荒らしました。数年のうちにフランスの南半分のほとんどを壊滅させるまで蔓延しました。

フィロキセラ害
フィロキセラ害

 フランス政府は懸賞金までかけて対策を募集しましたが、紆余曲折の上、結果的にアメリカ系ブドウ樹の台木にフランスのブドウを継ぐという対策をとることになりました。1870年代から1880年代にかけての数年間で国内のブドウ樹を根こそぎ抜いて植え替えました。

 しかし、シャンパーニュ地方でフィロキセラが発見されたのは1890年のことです。
エーヌ県とマルヌ県境のトルレーという小さな村落でした。ボルドーが被害を受けた1870年から20年も経ってのことです。シャンパーニュ地方の寒冷な気候条件により蔓延が遅くなったのです。

 そして1890年から1910年までの20年間で被害が拡大して行きました。
マルヌにおけるブドウ畑の被害は、1892年に5エーカーだったものが1898年には100エーカー、1905年に8,000エーカー、1910年には16,000エーカーと拡大しマルヌ県の約半分に及んでいきました。

 この拡大を防ぐ手立てはありました。
シャンパーニュの知事の呼びかけにより、1891年7月にブドウ栽培者にフィロキセラ害を排除するための会合が開かれたのです。
ここでブドウ栽培者の結集が要請されましたのですが、25,729人の約半数の12,82人が要請に応じず、栽培者の結集した植え替えは必ずしも行われませんでした。

 シャンパンメーカーが台木を提供しても栽培者たちは拒否したのです。
栽培者たちとシャンパンメーカーとの間に信頼感が欠如していたことに加え、栽培者は先祖から受け継がれたブドウを大事にしており保守的であったことがその理由でした。

(追い打ちをかけた経済不況)

 さらに悪いことに、大戦により経済低迷がフランス国内の消費を落ち込ませ、シャンパーニュ地方は苦境に陥りました。輸出先である海外市場も3分の2が失われてしまいました。
ロシア革命(1917年)による輸出の停滞、アメリカでの禁酒法(1920年~1933年)の影響が大きく及んだのです。このように1920年代の経済は不安定な動きをしていました。
そして、1929年にニューヨーク株式市場が急落し大恐慌が始まりました。

 シャンパーニュ地方にとっては経済不況はとてつもない不運な事態でした。
シャンパーニュ地方はこの時期、戦争とフィロキセラの被害から立ち上がり、しかも素晴らしいブドウの出来の年でした。シャンパンは卓越し、カーヴにもシャンパンが溢れていましたが、不況のため買い手がいなかったのです。

20世紀年表
20世紀年表
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