シャンパンボトル

ワインボトルが爆発!・・・シャンパンのそうだったのか!⑭

(コントロールできないボトルの爆発)

 ドン・ピエール・ペリニョンは1690年ころから自然発泡と対峙していましたが、その後のおよそ150年間、発泡性ワインには越えなければならない高い壁が立ちはだかっていました。
 18世紀前半のルイ15世の時代にあっても、シャンパーニュの酒造家たちは発泡性ワインには尻込みしていました。発泡状況は予測しがたいもので、気が抜けて泡が立たない時もあれば、木樽で寝かせすぎると泡が多くなり過ぎどろりとしたものになってしまいました。
そして何より危険でした。春になり再発酵したワインの泡が瓶を爆発させるのです。

 このころのガラス瓶は発泡性ワインの内圧に耐えられるものではなく、1745年頃、瓶の破損数は3分の1に達し、ときにはカーヴのボトルの半数が破損してしまうこともありました。
「悪魔のワイン」と醸造家たちは呼び、取扱いには鉄で編んだ前掛けと顔面保護マスクが欠かせませんでした。それでも安全が保障されていたわけではなく、すさまじい勢いではじけ飛ぶ栓は時としてマスクの隙間を通り抜け作業員の目を打つこともありました。

 このため1810年ころ(19世紀に入ったナポレオンの治世とその後の数年後)までは、シャンパーニュ地方において発泡性ワインの唯一の産地であったマルヌ県ですら、赤ワインが主体で、発泡性ワインは1/3に留まっていました。

(フランソワの解決策)

 しかし、転機が訪れました。1836年にシャロン・スール・マルヌの化学者・フランソワが瓶詰めする前のワインの残糖分を検査し、瓶の中で再発酵するワインの炭酸ガスの量を予知する実験に成功しました。瓶詰めする前にワインの中の糖分量を測ることで、瓶詰して安全にコルクの栓をすることができるようになったのです。

 フランソワのおかげで発泡性ワインの製造は以前より危険な仕事ではなくなり、以前より安価な値段で供給することができるようになりました。1840年代に入るとシャンパーニュの赤ワイン需要は減退し、発泡性シャンパンが主要なワインになりました。
記録によればフランスにおける1844年から1869年までの25年間で国内外の販売数を663万本から1748万本と2.6倍に拡大させたのです。この拡大は対英米への輸出に負うところが多いのですが、おりしも英国における産業革命が起こり<かつてない富裕と繁栄に恵まれたことが背景にあります。

(シャンパンボトルも変化した)

 なお、現在のシャンパンのボトルは他のワインと全く異なった構造になっています。重量があって、膨らみがあり、底面にはへこみがつけられ、二次発酵の内圧に耐えられるようになっているのです。

 また19世紀初頭1.2キロあったボトルは現在835グラムにまで軽量化されています。

シャンパンボトル
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