ウィンストン・チャーチル

ウィンストン・チャーチルとポル・ロジェ・・・シャンパン・メゾン①

(英国のウィンストン・チャーチルとは)

 英国のウィンストン・チャーチル(1874年~1965)。第二次世界大戦でドイツに対して敢然と対し英国を導いた鉄の宰相です。チャーチルがノーベル賞を受賞したと聞くと「平和賞」と自動的に思いますが、実は「ノーベル文学賞」。1953年に『回顧録第二次世界大戦』の著作で受賞しました。
 チャーチルは、政治的な能力と同様、文才にも非常に恵まれていて、生涯、43冊の本を書き、1,000編以上のコラムを新聞や雑誌に寄稿しました。

(チャーチルのパトロン、ポル・ロジェ(Pol Roger))

このチャーチルはもともとポル・ロジェのシャンパーニュが好きで、初めて飲んだのが1908年、34歳のときでした。彼が終生ポル・ロジェのパトロンとなり、ポル・ロジェの将来が劇的に好転していく模様を見ていきましょう。
 チャーチルがポル・ロジェのパトロンとなった背景には、ポル・ロジェの経営者の妻であるオデット夫人の存在がありました。オデット夫人は当時パリにおける最高の美女とも言われていました。1944年11月11日に70歳のチャーチルは33歳の夫人と出会いました。


チャーチルの多量の注文
 チャーチルはパリの英国大使館の昼食会に出席。駐仏英国大使からオデット夫人を紹介され、一目でオデットの虜になったチャーチルは、その場でポル・ロジェを数百ケース注文しました。

オデット夫人のチャーチルへの一生涯の付け届け
 英国大使館の最初の出会いでチャーチルが飲んだのが、伝説の「ポル・ロジェ1928年」。以降、オデット夫人はチャーチルの誕生日(11月30日)に、毎年1928年物を1ケース、在庫がなくなるまで送り続けました。

チャーチルの馬「ポル・ロジェ」
 競馬が大好きなチャーチルは複数の競争馬を所有していて、その中の最も有望な牡馬である愛馬に「ポル・ロジェ」と命名。1953年6月2日、ロンドン近郊のケンプトン・パーク競馬場でポル・ロジェ号が初勝利
 チャーチルは、ウェストミンスター寺院でのエリザベス女王の戴冠式に出席していた最中にもかかわらず、オデット夫人に勝利の電報を打ったほどでした。

チャーチルの特別キュヴェを発売
 ポル・ロジェはチャーチルの1965年の死去の際、その死を悼みラベルに黒い線(喪章)を入れました。1965年ヴィンテージからイギリスに出荷するようになり、1975年まで10年間続きました。
 また、1984年には特別キュヴェ「キュヴェ・サー・ウィンストン・チャーチル」を発売。その後も特別キュヴェを継続。キュヴェのスタイルは、フルボディで力強く、しっかり熟成した味わい。チャーチルが生きていた時代に実際に使われたグラン・クリュのブドウのみを使用しました。
 そして、ヴィンテージが造られる時はチャーチル家の方と試飲し、許可を得てから90カ国に出荷されました。

通り名、住所までも変更
 ポル・ロジェ社の本社は、エペルネ市のアンリ・ルラルジュ通りの1番地にありますが、
この「アンリ・ルラルジュ通り」を「ウィンストン・チャーチル通り」に名称変更。住所は、「1 Rue Winston Churchill, 51206 Epernay Cedex」になりました。

ファミリーにも引き継がれたポロ・ロジェ好き
 チャーチルの義理の息子にソアム卿がいますが、彼が1970年代後半のローデシア紛争のとき、
『平和交渉はあと何日続くか?』と聞かれ、
『30日だ。何故なら、ポル・ロジェが30本しか手元にないから』
と、ウィットを交えて答えたというエピソードがあります。

ポル・ロジェ
ポル・ロジェ
ウィンストン・チャーチル
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