ルイ15世(ヴェルサイユ宮殿蔵)

シャンパンの黎明期、ルイ14世&15世時代:17~18世紀・・・シャンパンのそうだったのか!⑪

(ルイ14世とドン・ピエール・ペリニョン)

 ルイ14世(在位: 1643年5月14日~1715年9月1日)は太陽王と呼ばれました。ヴェルサイユ宮殿を造成した王として有名ですが、オランダ対外侵略戦争をはじめとする度々の侵略戦争に明け暮れた一生でした。
 16歳の時、ランスにおける戴冠式の祝宴の席で初めてシャンパーニュのワインに出会い、以降50年にわたりシャンパーニュのワイン以外めったに飲まず、宮廷中もそれに従っていました。

 奇遇にもルイ14世の生まれた年にドン・ピエール・ペリニョンは生まれ、ルイ14世の亡くなった年の同じ月にドン・ピエール・ペリニョンは亡くなりました。
・ルイ14世(1638年9月5日生~1715年9月1日)
・ドン・ピエール・ペリニョン(1638年12月生~1715年9月24日)

 「王として豪奢な人生を送ったルイ14世」と「修道僧として赤貧のうちに生きたドン・ピエール・ペリニョン」。
あまりに対照的な二人でしたが、唯一の共通点はワインを愛したことでした。しかし、二人は一度も会うことはありませんでした。

(ルイ15世時代、ヨーロッパの宮廷での中心ワインになった)

 ルイ15世(1710年2月15日生 ~ 1774年5月10日)はルイ14世の曾孫です。
曾孫が皇帝になった理由は、ルイ14世の息子、孫、最年長の曾孫が天然痘やはしかによって次々に亡くなって5歳で即位したからです。即位時、ルイ15世は幼少であり、従兄弟のオルレアン公フィリップが摂政職を奪取し事実上の支配者になりました。
 このフィリップ公は放蕩者で宮廷生活はルイ14世時代とは一転して変容しました。夜の夕食会が催され夕食会がフランスでは最も人気のある娯楽になったのです。そこでシャンパンは人気で名声を高めることになりました。

 ルイ15世は成長し宮廷で率先してシャンパンを飲みましたが、この時代女性が宮廷で暗躍した女権時代でもあり、ポンパドール夫人などが好んでシャンパンを飲んでいたのです。
 ただ、このころでもシャンパーニュ地方のワインの中で、発泡性シャンパンはほんの2%にしか過ぎませんでした。シャンパンは民衆に普及していたわけではなく宮廷など限られた範囲で飲まれていたのです。

そして、1730年までにシャンパンはヨーロッパの宮廷を支配しました。ロンドン、ブリュッセル、ウィーン、マドリード、プロイセン、ロシアの宮廷をです。

 それでもシャンパンは宮廷への普及で成功していたので、この時代から今日の大手シャンパンメーカーの何軒かの祖先がシャンパンの販売と輸出を始めるようになりました。 主なシャンパンメーカーを挙げると、創業1729年のルイナール社、1743年のモエ・エ・シャンドン、1750年のランソン社の前身会社、1772年のクリコなどです。

ルイ15世(ヴェルサイユ宮殿蔵)
ルイ15世(ヴェルサイユ宮殿蔵)

(ルイ15世の貢献・・・瓶の基準制定と瓶による輸送の許可)

 シャンパン好きのルイ15世はシャンパンへの貢献も行いました。
発泡性シャンパンの瓶に基準を設け、決まった形で決まった量が入るものに統一したのです。
容量は25オンス(約700ml)、コルクは「しっかりと捩じってコルクに十字を掛けた三つ編みの紐」で止めること、ボトルは細長いネックのバルブ型というもの。

 さらにそれまでは樽で運搬されなければならなかったルールをシャンパンだけは瓶で輸送することを許可しました。
ランスの市長や助役たちが王に対し請願して1728年に認められたのです。シャンパンを国内はもちろん海外に輸送する際に気が抜け品質が失われてしまう問題が改善されることになりました。
このことで生産者たちはシャンパン市場の拡大ができるようになったのです。

17~18世紀年表
17~18世紀年表
ルイ15世(ヴェルサイユ宮殿蔵)
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