ポメリー

辛口シャンパンを先駆けた「ルイーズ・ポメリー」のポメリー・・・シャンパン・メゾン⑥

(フランスの甘口嗜好)

 シャンパンはその爽やかな飲み口が人気で、今でこそシャンパンは辛口(Brut)が主流ですが、かつては甘口が占めていました。
シャンパンのみならずスティルワインは18世紀~19世紀までは甘口でした。
ほのかな甘みのあるオフドライワインはどんな料理も味は引き立ち、多少甘みがあった方が好まれていたのです。

 シャンパンについて言えば、1836年のフランソワの比重計のおかげで、1840年代から瓶の破損を食い止めることが徐々にできるようになり、誰でも安く買える安い発泡性シャンパンが製造できるようになりました。これらは甘いワインで大変若いものでした。

 食事後にデザートと一緒にシャンパンを飲むことが、第二次世界大戦までのフランスでは主流で、食事とは別に飲まれ、食事前に飲むこともありませんでした。発泡性シャンパンは食後に出すものとされていました。
ただ、フランスでも食後には、南部の伝統的な甘いデザートワインが徐々にシャンパンの代わりに出されるようになって行きました。

ポメリー風景
ポメリー風景

(英国の食後嗜好の変化)

 一方で、英国では食後にはポートやシェリー、マデイラなどの酒精強化ワインが飲まれていました。
特にポートのヴィンテージものの良いもの(1834・40・42・47年もの)が出回るようになって、食後にシャンパンを飲まずともよい状況になりました。
このためシャンパンは魚介類や肉料理の場合に食事とともに飲む志向になって行ったのです。そうして食事に合う辛口のシャンパンを求めるようになったのです。

ポメリー ブリュット ロワイヤル
ポメリー ブリュット ロワイヤル

(辛口シャンパンの製造販売を先駆ける)

 このようにフランスでこの甘口が辛口に変わってきたのは、国内の甘口ワイン地図の変化に加え、英国の影響が大きく作用しました。

 この英国での辛口人気に目を付けたのがルイーズ・ポメリーでした。
実はこういう英国の甘口から辛口への嗜好変化にもかかわらず、1850年まで頃はペリエ・ジュエやルイ・ロデレールといったシャンパンメーカーはこの求めに応じませんでした。
1850年末期から1860年ころになってようやく「英国キュヴェ」として少し製造するようになりましたが、ルイーズ・ポメリーは大胆に事業方針を辛口に舵を切ったのです。

 当時の状況は1870年にナポレオン3世がプロイセンに宣戦布告して普仏戦争/プロイセン=フランス戦争が始まった時代です。翌年プロイセンが勝利し、シャンパーニュ地方は窮状に陥った状況下でした。
 それでもルイーズ・ポメリーは辛口のシャンパンを造ることに挑みました。
彼女の会社内では辛口シャンパンの製造には懐疑的な意見が大半でした。その理由は次の事情です。
「辛口シャンパンを造ることはよりお金がかかり、当時技術的にも難しい。」
「より良質なブドウ、より完熟したブドウを使わなければならず、熟成期間も長くかかる。」
「それまで甘口シャンパンしかなかったので、辛口シャンパンの製造にはリスクがある」など。

 しかし、彼女は信念を貫いて辛口シャンパンの製造に挑みました。3年ほどはブドウが不作だったため期待の辛口シャンパンはできませんでしたが、1874年この世紀最高のヴィンテージと言われる年に最高の辛口シャンパン「ブリュット‘74」が誕生しました。
この「ブリュット‘74」は会社ポメリー・エ・グレノを業界屈指の大メゾンに変えただけではなく、ワイン産業全体を変質させたのです。

 辛口のシャンパーニュは食前や食中にも楽しめると大人気になりました。ポメリーの「ブリュット・ナチュール(=現在のブリュット・ロワイヤルの元祖)」のおかげで、英国でのシャンパンの消費量が一気に3倍も膨れ上がったと言われ、英国はシャンパーニュ最大の輸入国になりました。

ルイーズ・ポメリー
ルイーズ・ポメリー
ポメリー社
ポメリー社

(ルイーズ・ポメリーとは)

 ルイーズ・ポメリーは、ランス市の東北にあるアネル村で生まれました。1839年にルイと結婚。17年後ルイがポメリー・エ・グレノの経営権を握りましたが2年後の1858年に死去してしまいます。彼女が39歳の時です。事業をを引き継ぐ決心をしました。

 そして彼女は事業を拡大しようとしましたが、銀行が融資してくれません。そこで大胆な行動をとりました。ジャン=フランソワ・ミレーの絵画、『落穂拾い』(1857年)を高額な資金を出して買ったのです。彼女の肝の大きさに銀行も驚嘆して、以降、事業が好転しました。
 また、彼女は、シャンパーニュとランス市の発展に巨大な貢献をしたとして、女性で初めて国葬になりました。2万人が葬儀に訪れ、当時の大統領、マリー・フランソワ・サディ・カルノーも出席しました。
 さらに、マダムが薔薇を好きだったことから、栄誉を称えるため、関係の深かったモンターニュ・ド・ランス地方のシニー村(1級格付け)の名前をシニー・レ・ローズに変えました。

ミレーの名画『落穂拾い』:現在オルセー美術館に収蔵されています。
ミレーの名画『落穂拾い』:現在オルセー美術館に収蔵されています。
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