ランス大聖堂

シャンパーニュ地方のワインは古来「赤ワイン」そして「王のワイン」だった・・・シャンパンのそうだったのか!⑤

(長らくシャンパーニュ地方のワインは赤ワインだった。)

 シャンパーニュ地方のブドウ栽培地は起伏に富んだ丘の斜面にブドウの木が植えられています。
平均斜度は12%ですが、場所によっては59%に達する急斜面もあり、ブドウ畑での作業はなかなか大変ですが、良質なブドウができます。
 適度な傾斜面は苗木1本1本に十分な日照をもたらし、 雨水が流れやすいので適度な排水性があるからです。この地形の利を古くから活用してブドウが栽培されてきました。

 古代ローマ人は紀元前57年ころからシャンパーニュ地方でブドウを植え、ワインを造り始めていました。
ただ、現在のような発泡性ワインではなく赤ワインでした。しかも深い赤ではなく、玉ねぎの皮に近い薄いピンクがかった茶色で「ヤマウズラの目」と称されていました。
 このように寒冷なシャンパーニュ地方では、17世紀頃までは色の薄い赤ワイン(ピノ・ノワールの先祖)が中心に生産され、黒ブドウを白ワインのように仕込むヴァン・グリが主流となっていったのです。まずは“泡をもたないワイン”がシャンパーニュ地方に繁栄をもたらしていきました。

 特に、エペルネとマルヌ川を隔てて北東の対岸に位置するアイ村のワインは、9世紀頃からローマ人の中で“アイのワイン”と呼ばれ、ワインの銘醸地として知られていました。一地方のワインというよりは、「フランスのワイン」の一つとして考えられていたほど並外れた品質を持っていました。
 シャンパーニュのワインを称賛するものに王族や教皇に関する次のような記録があります。

11世紀にはこの地方出身の教皇ウルバヌスが故郷アイ村のワインを称揚し、「他のどのワインよりも好む」と言い、シャンパーニュ地方のワインが注目されました。

16世紀初期にはヴァロワ朝9代のフランソワ1世が自らを「アイとゴネスの王」と呼んでいてアイ村で造られたワインを愛飲していました。
・また、16世紀後半にはアンリ3世シルリー村(ランスの東に位置する)のワインを愛飲していました。


シャンパーニュ畑風景
シャンパーニュ畑風景
アイ村、シルリー村の地図
アイ村、シルリー村の地図

(歴代のフランスの王はランスで戴冠式を行い、シャンパーニュのワインで祝った)

 シャンパーニュの主要都市であるランス(Reims)2千年以上の歴史を誇ります。伝承によれば、ローマ建国の王・ロームルスの双子の弟レムスが創ったと言われています。その後、古代ローマのガリア属州の州都に制定されました。

 このランスで、496年のクリスマスにフランク王クロ―ヴィスがランス司教・聖レミギウスから洗礼を受けました。クローヴィスは、ゲルマン民族諸王の中でカトリックに改宗した初めてのフランク王でした。
それ以来、歴代の国王、ピピン短躯王(754年)からシャルル10世(1825年)まで、フランスのほぼすべての王25人がこの大聖堂で戴冠式を行いました。
ジャンヌ・ダルクが1429年7月17日、シャルル7世の戴冠式を挙げ、正式にフランス国王シャルル7世を誕生させたのも大聖堂でした。

 戴冠式の後には、シャンパーニュのワインで祝宴を行いますが、その多くは赤ワインでした。シャルル4世とフィリップ6世の戴冠式ではオーヴィレール修道院のブドウ畑で造られたワインが用いられたとの記録があります。
 このようにシャンパーニュのワインが「王のワイン」という神話はここから生まれました。

ランス大聖堂
ランス大聖堂

(繊維業からワイン業に転身したシャンパーニュ地方)

 シャンパーニュ地方を語る時、シャンパーニュ地方の大市は外せません。
 12世紀頃から13世紀にかけて、シャンパーニュ地方の諸都市では数週間にわたる大市が開かれ北ヨーロッパ商業圏の中心となっていました。大市の間、大陸中の商人が集まりました。パリをもしのぐ栄華を誇っていたほどです。
 ヨーロッパの2大商業路、「フランスとドイツを結んで東西に延びる道」と「北海と地中海を結ぶ南北の道」が交わり、アジアから運ばれた香辛料、北欧からの毛皮や海産物、ほかの西ヨーロッパの都市からは毛織物なども、持ち込まれていました。

 シャンパーニュ地方は毛織物の産地でもありましたが、自家消費や副業に少量のワインも造っていました。これが13世紀に入るころから変化しました。毛織物のおまけにワインをつける販売戦略が思わぬ成果を上げたのです。大市に集まる多くの商人は大量にワインを消費するため、ワインの注文が増え毛織物を抜いて主要産物になりました。そして、ワインを商品とする商人も生みだしました。

(ブルゴーニュ地方とシャンパーニュ地方は100年間以上争った)

  赤ワインが古代・中世の主役でしたが、赤ワインを巡って、ブルゴーニュとシャンパーニュは諍っていました。特にルイ14世の時代は特徴的でした。1652年以来、両地域とも共に自分たちのワインこそが最高であり、健康維持にも最適と主張していました。
 舞台となったヴェルサイユ宮殿では、侍医の間でブルゴーニュとシャンパーニュとが自らの地域のワインをルイ14世に勧める諍いが激化していました。ルイ14世の正式な侍医は、アントワーヌ・ダカン。彼は忠実なシャンパーニュの擁護者であり、シャンパーニュのワインは健康に良いから食事の時は多少飲むのが良いとしていました。
 一方で、正式な侍医の地位を狙っていた者がいました。ルイの愛妾の力を借りて結局正式な侍医の地位についたギ=クレサン・ファルゴンです。彼はブルゴーニュワインの偏愛者でルイ14世の健康に問題のあるのをシャンパーニュのワインのせいにしました。
 その後両陣営は医師を使って双方に有利な論理を展開し、争いは130年間あまり続きました

 この諍いは長きにわたり続きましたが、決着は両陣営の赤ワインとしての良さによるものではありませんでした。シャンパーニュ地方の生産者が泡を生かす術を学び始め、赤ワインではなく発泡性ワインへの路線を歩み始めたからでした。シャンパーニュ地方が赤ワインから発泡性ワインの製造への方向転換したことによって赤ワイン論争の必要がなくなったのです。
 なお、シャンパーニュ地方の方向転換の背景には、シャンパンの泡が健康に良いとする医師が増大し、シャンパンが貴顕富裕層を中心に人気の的になったことがありました。

フランス地形図
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ルイ14世(シャルル・ルブラン作)
ルイ14世(シャルル・ルブラン作)
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