ヴーヴ・クリコ

動瓶(ルミュアージュ)を考案した「ヴーヴ・クリコ・ポンサルダン」のヴーヴ・クリコ・・・シャンパン・メゾン⑤

(ヴーヴ・クリコが会社を継ぐ)

 バルブ・ニコル・ポンサルダン(後に未亡人となる、クリコ・ポンサルダン)は1777年12月16日、ランスで生まれます。1798年、彼女は21歳の時に、フィリップ・クリコの息子、フランソワと結婚します。ポンサルダン家もクリコ家も大規模な紡績業を営んでおり、この婚姻は、業界での勢力を伸ばすための政略結婚でした。

 1801年、フィリップ・クリコが引退して、フィリップ・クリコの息子で、彼女の夫のフランソワ・クリコが跡を継ぎます。家業の紡績業、銀行、シャンパン・メゾンの全てを継いだのです。しかし、フランソワ・クリコは結婚の4年後の1803年、逝去してしまいます。クリコ・ポンサルダンには商人の血が流れており、27歳にしてメゾンを継ぐことになりました。そして、1810年に社名を「ヴーヴ・クリコ・ポンサルダン」に替え新たなスタートを切りました。
 1811年にはシャンパーニュ地方で初めてとなるヴィンテージ・シャンパン(※)を造りました。
 なお、ヴーヴはフランス語で未亡人を指します。
(※)単一年の特定のブドウ畑で収獲されたブドウで造られたシャンパン

(事業の立て直しに成功)

ヴーヴ・クリコ
ヴーヴ・クリコ

 しかし、ヴーヴ・クリコが事業を引き継いだ時期は、フランス国内で市民の暴動、戦時時特別税、外国軍隊の侵略と占領、革命政府の通貨暴落など社会・経済は悪い状況でした。特に、ナポレオンがロシア侵攻していたことでビジネスは大苦戦しました。フランスはイギリスとの戦いを繰り広げる一方でロシアとも戦うようになっていたからです。

 しかし、彼女は、1814年が終わる前までに危険を冒してロシアへ「彗星のワイン」を船で輸出し事業を立て直すのに成功しました。彼女のシャンパンはロシア宮廷をお得意にし、ロシアの市場を独占するまでになりました。
 この成功を見て、その後他の生産者たちもロシアと取引するようになり、シャンパンはロシア宮廷で「神酒」として扱われ使われ始めたのです。

(動瓶の確立)

 また、瓶に澱・濁りのないシャンパンを造る製法・動瓶(ルミアージュ)を確立したのは、彼女とカーヴ主任のアントワーヌ・ド・ミュレ
 シャンパーニュの製造過程では、二次発酵させてから、穴が開いた動瓶台にボトルを逆さまに入れ、動瓶(ルミュアージュ)をして澱をボトルのネック部に集めました。コルクを抜くと澱が吹き飛ばされ、後には泡がほとんど消えないまま透明度の高いワインが残ります。その後瓶にシャンパンを注ぎ足しもう一度コルクで栓をしてシャンパーニュを造ります。

 この動瓶台を発明し、澱を取り除くプロセスを確立したのがクリコ・ポンサルダンです。これは1816年のことで、彼女は39歳でした。
 現在、透明なシャンパーニュが飲めるのはクリコ・ポンサルダンのおかげといえます。

ヴーヴ・クリコ 風景
ヴーヴ・クリコ 風景

(最初のロゼ・シャンパン)

 また、赤ワインをブレンドしてロゼのシャンパーニュを造ったのもヴーヴ・クリコ・ポンサルダンが最初でした。それまでのロゼは、白シャンパーニュにブルーベリーに似たエルダーベリーの紫色ジュースを搾り、混ぜていました。

 ヴーヴ・クリコ・ポンサルダンは、ピノ・ノワールをブレンドし、ブドウだけでロゼ・シャンパンを造りました。ヴーヴ・クリコ・ポンサルダンが41歳の1818年の時で、このロゼが、有名な「ローズ・ラベル」です。

 彼女が継いだ時1803年には僅か5万本の年間売り上げでしたが、彼女が亡くなった1866年には300万本を生産するほどまで発展させています。

  このような彼女の素晴らしい貢献を褒めたたえ、彼女には「シャンパーニュ地方の偉大なる女性(ラ・グランダム)」というニックネームがつけられました。 

(現在のヴーヴ・クリコ)

 なお、1987年に、ヴーヴ・クリコ社は「ルイ・ヴィトン」と合併し、LVMHグループの傘下に入り、世界120カ国以上で販売しています。 280haの自社畑を所有し、ランスの町の地下には3,000万本以上のシャンパンが眠っています。

 そのシャンパンの特徴は、黒ブドウのよさを最大限に引き出しソフトで口当たりが良く新鮮な果実味の香りを感じさせます。風味には深みがあり滋味に溢れ、魅力的なシャンパンです。

ヴーヴ・クリコ
ヴーヴ・クリコ
ヴーヴ・クリコ ロゼ
ヴーヴ・クリコ ロゼ
ヴーヴ・クリコ
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