シャンパーニュ地形図

苛烈な戦争が繰り返されたシャンパーニュ地方で造られた「シャンパン」・・・シャンパンのそうだったのか!②

(シャンパーニュとは「平原」)

 シャンパーニュ(Champagne)の名前はローマ語「Campagne」からきています。
「平原」の意味で当時この地方は広々とした平原でした。ヨーロッパでは11世紀の大開墾時代が始まるまでは、至る所ドイツの有名な「黒い森」のような厚い森に覆われていて、平原は少なかったといわれています。
 そのような貴重な平原は、人が集まり活発に活動する場でもありました。

シャンパーニュ地形図
シャンパーニュ地形図

(繰り返された戦争の数々)

 古来、ヨーロッパでは民族間の覇権争いが繰り返され、侵略戦争が絶えませんでした。
シャンパーニュ地方ではフン族の襲来をはじめとして、百年戦争(※2)、宗教戦争(※3)30年戦争(※4)、フロンドの乱(※5)、スペイン継承戦争(※6)、ナポレオン戦争(※7)、これらのほとんどすべてが当初シャンパーニュ地方で戦われました。
 例えば、フン族の襲来は紀元451年です。9月21日、フン族アッティラ族長が70万人の軍勢で史上稀にみる血なまぐさい戦いをシャンパーニュ地方で行いました。わずか1日で20万人が虐殺され、死体が野や丘に散らばったと言われています。
 10世紀には中心都市ランスは60年の間に4度包囲されました。同じく主要都市エペルネも6度の略奪を受け、ブドウ畑はことごとく焼かれたと言います。
 11世紀から13世紀には十字軍の時代(※1)がきて、シャンパーニュから強壮な男たちが出払ってしまい、その後14世紀にはは黒死病がヨーロッパの人口を半減させました。
 以降の数世紀にわたり、百年戦争以下の先に述べたような血なまぐさい戦争が続きます。

 ドン・ピエール・ペリニョンが後に属したオーヴィレール修道院は、略奪を受け少なくとも4回は焼け落ち、16世紀が終わるころにはほとんどの修道僧が姿を消していたほどでした。
 そして、第一次世界大戦(1914~1918年)では、ドイツからほど近い位置にあるシャンパーニュ地方はドイツとの前線となり、熾烈な戦いを受け続けました。シャンパーニュ地方のワイン産地には砲弾が飛び交い毒ガスが覆い、大変な状況に至りました。住居やメゾンは破壊され、人々はこぞってカーブ(地下洞窟)に生活の場を移すことになり、ブドウ栽培・シャンパン造りも瀕死の状況に至りました。

(※1)十字軍の時代:1097~1270年にわたって7回の遠征
(※2)百年戦争:1337~1453年、イングランド王がフランス国内に領土を有し、フランスの王位継承権を争ったことで、フランスを戦場にイングランド,フランスの間で断続的に行われた戦争
(※3)宗教戦争:1517年、ルターによって切り開かれたプロテスタント(新教)とカトリック(旧教)の対立が激化し、16世紀中頃から17世紀前半の約1世紀間、ヨーロッパで吹き荒れた戦争。ドイツのシュマルカルデン(1546~47年)、フランスのユグノー(1562~98年)など内戦。旧教国スペインから新教徒の国オランダが独立を求めて戦ったオランダ(1568~1609年)
(※4)30年戦争:1618~48年、ドイツのキリスト教新旧両派の宗教内乱から発展した最大の宗教戦争。ヨーロッパの各国が介入した国際的な戦争
(※5)フロンドの乱:1648~53年、ルイ14世の中央集権化に反発した貴族の反乱
(※6)スペイン継承戦争:1701~13年、フランス・ルイ14世が孫フェリペをスペイン王の継承者としたことを巡って起こった、フランス・スペイン連合軍とイギリス・オランダ・オーストリア(神聖ローマ皇帝)・プロイセンなどの連合軍との戦争
(※7)ナポレオン戦争:1796年~1815年、ナポレオン1世によって起こされ、展開された一連の戦争

 シャンパンの華やかさ、きめ細やかさの裏側には、シャンパーニュ地方のこのような悲惨な歴史を乗り越えて花開かせた多くの人々の努力がありました。
そして、そこには様々な物語があります。次回以降でその物語を記します。

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