マダム・エリザベス・リリー・ボランジェ

シャンパーニュを発展させた女性とドイツ人たち・・・シャンパンのそうだったのか!⑱

(女性とドイツ人の貢献)

 シャンパーニュが2015年7月、ユネスコ世界遺産に登録された際、シャンパーニュ景観協会が発表した報道資料には次のように書かれています。「振り返れば、18世紀はシャンパーニュの生まれた世紀19世紀は産業革命によりシャンパーニュが世界的に認知され広まった世紀20世紀はそれが大衆化した世紀だった。シャンパーニュ景観協会会長、ピエール・シュヴァル」

 そして、発展の貢献者について
 ・「進歩には、女性たちと旧シャンパー ニュ大市の商人の子孫であるドイツ系フランス人の人々が貴重な役割を果たしました。これらの人々は17~18世紀に近隣市街地に領域を広げるまで、古くからブドウ畑の広がるオヴィレ、アイ、 マレイユ・シュール・アイの丘陵に定住していました」
 ・「シャンパーニュの世界的成功は、生産と販売を根底から結び付けた、ブドウ栽培・ワイン製造者の力によるものです。立役者は先見の明のあったネゴシアンたち。ネゴシアンには、ドイツからの移住者(元毛織物製造業者)や、この時代には珍しい女性企業家であった未亡人が多いという特徴がありました。」と述べています。

それぞれの活躍を、具体的に見てみましょう。

(女性の活躍)

 シャンパーニュ業界の歴史の中で、女性たちは男性に劣らず重要な役割を果たしてきました。たとえば、クリコ・ポンサ ルダン未亡人(1777~1866年)、マダム・ポメリー(1819~1890年)、マダム・ボランジェ。この3人はそれぞれのメゾンの発展に尽くし、シャンパーニュを世界的に有名にしました。3人とも逞しいビジネスウーマンであると同時に、多くの協力者を配することを忘れませんでした。

〇ヴーヴ・クリコ
 穴の開いたボード(ピュピトル)に差し込まれたボ トルを回す動瓶(ルミアージュ)のテクニックや、ロゼシャンパーニュの開発、大胆な海外輸出によるブランドの成功は、クリコ夫人の功績によるものです。ヴーヴ・クリコは「偉大なる女性(ラ・グランド・ダム)」と呼ばれています。

〇マダム・ポメリー
 英国と北欧市場への進出を図るため、ルイーズ・ポメリーは、ドライ、ベリードラ イ、ブリュットの辛口のシャンパーニュを商品化します。それまで甘口であったシャンパンの辛口への転換を大胆に行いました。ビジネスウーマンであるばかりでなく、心ある女性でもあった彼女は、自社社員のために初の年金基金と健康保険を設立したほか、ランス市のために孤児院と妊婦基金を設立しました。「マダム・ポメリー」は女性で初めて国葬が執り行われました。

〇マダム・ボランジェ
 シャンパーニュの女傑「マダム・ボランジェ」はボランジェの3代目当主ジャック・ボランジェの妻で夫が亡くなった後を引き継いでメゾンを守り抜いた女性です。
第二次大戦下、ドイツ軍に占領されたフランスで、通称「ワイン総統(フランスからドイツへのワインの供出を指揮した)」を単身で追い返したという逸話は特に有名です。

マダム・エリザベス・リリー・ボランジェ
マダム・エリザベス・リリー・ボランジェ

(ドイツ系の人々の活躍)

 18世紀から19世紀にかけて、隣国ドイツがシャンパーニュ貿易に興味を示します。シャンパーニュメゾンの中でも大規模な会社は、ドイツとフランスの融和の歴史から生まれたものが多く、情熱と創造性にあふ れるドイツ人の若者がシャンパーニュ地方に移住して修業をしました。ドイツ人は外国語が喋れて几帳面で外国貿易の実務に能力を発揮していたのです。彼らは、この地方に定着した末に共同または単独でメゾンを建てるという例が当時はよくありました。以下のメゾンが代表例です。

ヴーヴ・クリコ
 1772年創業のヴーヴ・クリコにはヴーヴ・クリコ・ポンサルダン夫人を支える2人のドイツ人がいました。
 彼女が夫の死去に伴い会社を継いだ時期はフランス革命後の波乱に満ちた時でした。市民の暴動、外国からの侵略、貨幣価値の暴落など。その折、ドイツ・マンハイム出身のウェツェラ・ボーンの助力で難局を切り抜けました。彼は、帰化してランスの市長、商工会議所の会頭、国会議員にもなり彼女の死後には会社を継ぎました。
 また、国内販売がなかったヴーヴ・クリコは海外販売が生命線でしたが、ロシアの没落が起こりました。ドイツ人で共同経営者のエドワールド・ヴェルレは他の市場の開発を進め会社を支えました。

●G・H・.マム社
 1827年創業のG.H.マム社ののマム一族はドイツ人で、一族でシャンパーニュに居を構えました。20世紀初頭の社長・ヘルマン・フォン・マムは、当時市民権を申請していましたが、第一次世界大戦までの手続きが完了せず逮捕されてしまい、会社はフランス政府に押収されてしまいました。

●ボランジェ
 マダム・ボランジェで有名なボランジェは1829年創業です。マダム・ボランジェの夫の祖父であるジャック・ボランジェがドイツ・ヴェルテンブルグ出身です。
1854年にフランスに帰化していますが、1829年にはボランジェの名前でシャンパンを売り出していました。クリュッグ同様に家族経営のメゾンです。

●ドゥーツ
 ドゥーツはフランス国境にほど近いドイツ・アーヘンに生まれた2人のドイツ人が1838年に創業したメゾンです。ウィリアム・ドゥーツピエール・アルバート・ゲルダ―マンです。その後ドゥーツの血脈のみが残ったためドゥーツ家系列の家族経営を行っています。
あまり宣伝を行わず年間80万本の少ない販売となっていますが、かつてはフランスのワイン生産者の間で最も飲まれれているシャンパンだったそうです。

ドイツ関係メゾン6社
ドイツ関係メゾン6社

●クリュッグ
 クリュッグはドイツ・マインツ生まれでフランスに帰化したジョセフ・クリュッグが1843年に創業したメゾンです。
年間50万本しか製造しないクリュッグは徹底した家族経営をしています。

●シャルル・エイドシック他
 エイドシックと名の付くメゾンは3社あります。シャルル・エイドシック、ピペ・エイドシック、エイドシック・モノポールです。
この3社はドイツ人のフローレンツ・ルードリッヒ・エイドシックがランスでワインと織物の事業を始めたのが原点です。1828年に彼が死去し3人の甥が事業を継承しましたが、分裂してそれぞれが独立したのです。
 エイドシック・モノポールは1834年に独立した分家のメゾンで、現在シーグラム社 参加に入っています。エイドシック・モノポール社は1835年に創業し、現在家族経営のメゾンとなっています。
また、甥の一人シャルル・カミュ・エイドシックは、ピペ・エイドシック社で修業した後、シャルル・エイドシックを1851年に創立しました。彼はミュージカルや映画になった「シャンパン・チャーリー」です。

ドイツ人の関わったメゾン
ドイツ人の関わったメゾン



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