ドンペリ像(Hautvillers)

ドン ・ピエール・ペリニヨンはシャンパンの先駆者?・・・シャンパンのそうだったのか!⑨

(ドン・ピエール・ペリニヨンの生い立ち)

 ドン・ピエール・ペリニョン修道士(1639~1715年)の「ドン」とは、カトリック修道士の尊称です。
 彼は1639年にシャンパーニュ地方サント・メニュールドの中流ブルジョア家庭で生まれ育ちました。
子供の頃から父親と叔父が所有するブドウ畑で収穫を手伝うなど、ワイン作りに親しんで育ちました。
当時、次男、三男は修道院に入るか軍人になることが多く、7人も兄弟がいた彼は17歳で修道院に入ります。

 彼が所属したベネティクト会は、「服従」「清貧」「純潔」を戒律とするカトリック最古の修道会。
修道士たちは、非常に厳格な祈りと労働の日々を送ります。労働を重視するベネティクト会の修道院では、ワイン、はちみつ、石鹸、ろうそく、オイル、ウール製品、農作物、加工食品などが作っていました。

 オーヴィレール修道院のワイン生産はその一部でした。
彼はオーヴィレール修道院に19歳の時に移りました。

(卓越したブドウ造り)

(優しい圧搾とアッサンブラージュによるワイン造り)

 また、ワイン製造について、彼はブドウを優しく圧搾し、絞った果汁は各圧搾ごとに別々に保管することも行っています。
果汁から果皮の色の大部分を取り除き、濁りの澄明なワインを造るためです。
ピノ・ノワールを軽くつぶして慎重に圧搾しほんのり赤い発泡性ワインを造っていたと考えられます。

 そして、アッサンブラージュ(異なる品種、栽培地区、収穫年のブドウを混ぜ合わせること)をはじめとした技術を高めて行ったのもドン・ピエール・ペリニョンでした。
彼は、鋭い感覚の持ち主でアッサンブラージュを行い、良いワインを造りました。
使用するブドウを複数組み合わせて完璧な調和とバランスのとれたワインを造り出していたのです。

 当時からオーヴィレール修道院のワインは非常に高品質で評価が高く、一時はシャンパーニュ地域の他のワインの5倍の価格で売れましたが、値段が高すぎることが問題になったということが記録に残っているほどです。

 1694年9月29日、ピエール・ペリニヨンは自らの使命を、「世界最高のワインを造る」ことだと書き記しています。
彼は葡萄の栽培技術を向上させ、異なる葡萄畑の葡萄を芸術的にブレンドし、黒葡萄から白ワインを造る圧搾方法を生み出しました。
当時白ワインは珍しく、当時の技術では少しピンクがかったり、オレンジがかったりしたものを今日のように澄んだ白ワインに造り上げました。

 このような優しいブドウの圧搾やアッサンブラージュは現在のシャンパンを造る際の土台で、現在に至るまでのシャンパーニュ地方のワイン作りに大きな影響を残しました。

(発泡性ワインの基礎を造る)

 現在、ドン・ピエール・ペリニョンが現在のような発泡性ワインを造った先駆者との通説がありますが、これは正しくありません。
 先に述べたように、ドンペリの時代、シャンパーニュのワインは自然に泡のたつワイン、意図せず泡立つワインでした。自然の気まぐれとみなされていました。
この泡立つワインはミサ用には受け入れられなく、民衆にも歓迎されていませんでした。
このため、彼はワインから泡を取り除こうとたゆまぬ努力を続けていました。
彼にとっては良いワイン造りが重要であり、発泡は抑制したい厄介者でした。

 ブドウ畑には赤ワイン用の黒ブドウが植えられていて、人々は赤ワインを好んで飲んでいた当時です。
オーヴィレール修道院に残った記録によれば、彼の造ったワインの大半は白ではなく赤であり、発泡性ではなかったとあります。
ただ、彼が意を決して、あえて発泡性をつけたワインを造り始めたのが1690年代半ばとも言われています。
しかも、白ブドウを使うのではなく、黒ブドウを使っていました。白ブドウを使うと酸味が強すぎると考えていたようです。

 そして、今日に残る先進性はコルクの使用です。
彼はシャンパーニュ地方で初めてコルク栓を使用しました。
それまでは油をしみこませた麻の繊維でくるんだ木の栓を使用していましたが、コルクを使用することで、良いワイン、良い発泡性ワインの製造、貯蔵、運搬に大きく貢献しました。
 このワイン醸造技術に長けた先駆者は、ワインの発泡性自体を発見したわけではありませんでしたが、今日の高品質な発泡性ワインが造るための道を開きました。
 1715年、彼はオーヴィレール修道院の聖サンデゥルフ大修道院教会の内陣に埋葬され、今もそこに眠っています。

ドンペリ像(Hautvillers)
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