- 2024年1月6日
シャンパンのブドウは「山」「谷」「丘」で栽培される。・・・シャンパンの表と裏側⑤
シャンパーニュ地方のブドウ畑は5つの大きな地区に分かれており、最も遠い地区は200km以上離れています。大小の川が流れ、いくつもの丘(「コトー」)が連なり、さまざまな土壌と下層土からなります。この多様性が、数十年に及ぶ、各地区の栽培条件に適したブドウ品種の栽培を決定付けるものとなっています。5つの地区は以下です。
シャンパーニュ地方のブドウ畑は5つの大きな地区に分かれており、最も遠い地区は200km以上離れています。大小の川が流れ、いくつもの丘(「コトー」)が連なり、さまざまな土壌と下層土からなります。この多様性が、数十年に及ぶ、各地区の栽培条件に適したブドウ品種の栽培を決定付けるものとなっています。5つの地区は以下です。
「シャンパーニュ」とラベルに記載できるのはシャンパーニュ地方の5つの県にまたがっています。マルヌ県(66%)、オーブ県(23%)、エーヌ県(10%)、オートマルヌ県、セーヌ・エ・マルヌ県ブドウ畑は格付けは、エシェル・デ・クリュ(1911年制定)という分類によって、村単位で格付けが行われています。ランクは特級とその下のランクの一級から5級までがあります。319の村がありますが。特級の村は17あり、一級の村は42です。特に、グラン・クリュはマルヌ県にあるモンターニュ・ド・ランス地区の9つの村、ヴァレ・ド・ラ・マルヌ地区の2つの村、コート・デ・ブラン地区の6つの村にあります。
シャンパンの泡についての様々な面白い事実を記載しています。・もし無重力の宇宙でシャンパンを飲んだら泡はどうなる?・月や木星では泡はどうなる?・泡があるシャンパンと泡がない白・赤ワインはどちらが香りを感じやすいか?・口紅の口でシャンパンを飲む泡はどうなる?・ビールの泡とシャンパンの泡は違う?
シャンパンの泡研究しているランス大学のジェラール・リジェ・ベレール物理学の先生の著した「シャンパン 泡の科学」にはシャンパンの泡について、泡の正体、発生のメカニズム、泡の香りへの影響など興味深い研究成果が述べられています。 例えば、「きれいすぎるグラスでは泡は立たない」「ビールの泡とシャンパンの泡は大きさや固さが違う」。この書で明らかになった意外なこと、好奇心をとてもかきたてられた内容を記載しています。
現代のシャンパンには様々な面があります。これまでの「そうだったのか!」シリーズでは、シャンパンの歴史的な経緯の中にある様々な意外な事実を述べてきました。今回からの「シャンパンの表と裏」シリーズでは、現代のシャンパンそのものの真実とその裏側にある蘊蓄や意外な側面を記載します。 シリーズ第一回目は「健康上の効能」と「泡の素敵な表現」についてです。
ルイーズ・ポメリーは、ランス市の東北にあるアネル村で生まれ、1839年にルイと結婚。17年後ルイがポメリー・エ・グレノの経営権を握りましたが2年後の1858年に死去し、39歳にして事業を引き継ぎました。 シャンパンは今でこそシャンパンは辛口(Brut)が主流ですが、かつては甘口が占めていました。ルイーズ・ポメリーは辛口のシャンパンを造ることに挑み、信念を貫いて辛口シャンパンの製造に挑みました。ポメリーの「ブリュット・ナチュールのおかげで、英国はシャンパーニュ最大の輸入国になりました彼女は、シャンパーニュとランス市の発展に巨大な貢献をしたとして、女性で初めて国葬になりました。
バルブ・ニコル・ポンサルダンは夫・フランソワ・クリコとの結婚の4年後の1803年、未亡人になってしまいます。メゾンを継ぐことになり1810年に社名を「ヴーヴ・クリコ・ポンサルダン」に替え新たなスタートを切りました。この頃ナポレオンがロシア侵攻でビジネスは大苦戦しましたが、1814年が終わる前までに危険を冒して「彗星のワイン」をロシアへ船で輸出し事業を立て直すのに成功しました。 また、1816年、瓶に澱・濁りのないシャンパンを造る製法・動瓶(ルミアージュ)を確立しました。 さらに、赤ワインをブレンドしてロゼのシャンパーニュを造ったのもヴーヴ・クリコ・ポンサルダンが最初でした。
シャンパーニュの成功は、生産と販売を根底から結び付けたブドウ栽培・ワイン製造者の力によるもので、立役者はネゴシアンたち。ドイツ系フランス人の人々が貴重な役割を果たしました。現在のヴーヴ・クリコ、クリュッグ、ボランジェ、シャルル・エイドシック他、G・H・.マム社、ドゥーツです。また女性企業家であった未亡人が活躍しました。クリコ・ポンサ ルダン未亡人、マダム・ポメリー、マダム・ボランジェです。
1914年に起こった第一次世界大戦戦争ほどシャンパーニュ地方に大きな影響を与えた戦争はありませんでした。地上にあった全てのものが地下に潜りました。ドイツ軍が手あたり次第にシャンパンを飲みつくしました。 1918年11月11日、大戦はようやく終結しました時には、ランス市の98%が破壊され、4万戸の家の内残ったのはわずか40戸という有様でした。シャンパーニュの人口の半分以上が失なわれ、エーヌ県では3分の2を失いました。ブドウ畑にも大きな影響を受けました。ボルドーが被害を受けた1870年から20年も経ってやってきたフィロキセラ害が大戦中に拡大し、シャンパーニュ地方のブドウ樹を根こそぎ引き抜き、アメリカ産の台木で植え直さなければならない状況に至ったのです。 さらに悪いことに、大戦による経済低迷がシャンパーニュ地方は苦境に追い込みました。シャンパンは卓越し、カーヴにもシャンパンが溢れていましが、不況のため買い手がいなかったのです。
G.H.マムは多くのシャンパン・メゾンの中でもその歴史の起伏に富んだ会社です。その変遷の中で生み出されたシャンパンの香り、口当たり、飲み心地の良さは「Soft&Mild」との形容が相応しいとよく言われています。コルトン・ルージュに代表される人気シャンパンを生んだG.H.マムの「そうだったのか」を紹介します。