• 2024年1月3日

シャンパンの泡研究、泡の数・大きさ、立たない泡、香りを運ぶ泡・・・シャンパンの表と裏側②

シャンパンの泡研究しているランス大学のジェラール・リジェ・ベレール物理学の先生の著した「シャンパン 泡の科学」にはシャンパンの泡について、泡の正体、発生のメカニズム、泡の香りへの影響など興味深い研究成果が述べられています。 例えば、「きれいすぎるグラスでは泡は立たない」「ビールの泡とシャンパンの泡は大きさや固さが違う」。この書で明らかになった意外なこと、好奇心をとてもかきたてられた内容を記載しています。

  • 2024年1月3日

シャンパンの「健康上の効能」と「泡の素敵な表現」・・・シャンパンの表と裏側①

 現代のシャンパンには様々な面があります。これまでの「そうだったのか!」シリーズでは、シャンパンの歴史的な経緯の中にある様々な意外な事実を述べてきました。今回からの「シャンパンの表と裏」シリーズでは、現代のシャンパンそのものの真実とその裏側にある蘊蓄や意外な側面を記載します。 シリーズ第一回目は「健康上の効能」と「泡の素敵な表現」についてです。

  • 2024年1月1日

辛口シャンパンを先駆けた「ルイーズ・ポメリー」のポメリー・・・シャンパン・メゾン⑥

ルイーズ・ポメリーは、ランス市の東北にあるアネル村で生まれ、1839年にルイと結婚。17年後ルイがポメリー・エ・グレノの経営権を握りましたが2年後の1858年に死去し、39歳にして事業を引き継ぎました。 シャンパンは今でこそシャンパンは辛口(Brut)が主流ですが、かつては甘口が占めていました。ルイーズ・ポメリーは辛口のシャンパンを造ることに挑み、信念を貫いて辛口シャンパンの製造に挑みました。ポメリーの「ブリュット・ナチュールのおかげで、英国はシャンパーニュ最大の輸入国になりました彼女は、シャンパーニュとランス市の発展に巨大な貢献をしたとして、女性で初めて国葬になりました。

  • 2024年1月1日

動瓶(ルミュアージュ)を考案した「ヴーヴ・クリコ・ポンサルダン」のヴーヴ・クリコ・・・シャンパン・メゾン⑤

 バルブ・ニコル・ポンサルダンは夫・フランソワ・クリコとの結婚の4年後の1803年、未亡人になってしまいます。メゾンを継ぐことになり1810年に社名を「ヴーヴ・クリコ・ポンサルダン」に替え新たなスタートを切りました。この頃ナポレオンがロシア侵攻でビジネスは大苦戦しましたが、1814年が終わる前までに危険を冒して「彗星のワイン」をロシアへ船で輸出し事業を立て直すのに成功しました。 また、1816年、瓶に澱・濁りのないシャンパンを造る製法・動瓶(ルミアージュ)を確立しました。 さらに、赤ワインをブレンドしてロゼのシャンパーニュを造ったのもヴーヴ・クリコ・ポンサルダンが最初でした。

  • 2023年12月30日

シャンパーニュを発展させた女性とドイツ人たち・・・シャンパンのそうだったのか!⑱

シャンパーニュの成功は、生産と販売を根底から結び付けたブドウ栽培・ワイン製造者の力によるもので、立役者はネゴシアンたち。ドイツ系フランス人の人々が貴重な役割を果たしました。現在のヴーヴ・クリコ、クリュッグ、ボランジェ、シャルル・エイドシック他、G・H・.マム社、ドゥーツです。また女性企業家であった未亡人が活躍しました。クリコ・ポンサ ルダン未亡人、マダム・ポメリー、マダム・ボランジェです。

  • 2023年12月29日

20世紀初頭は苦境の連続だった・・・シャンパンのそうだったのか!⑰

 1914年に起こった第一次世界大戦戦争ほどシャンパーニュ地方に大きな影響を与えた戦争はありませんでした。地上にあった全てのものが地下に潜りました。ドイツ軍が手あたり次第にシャンパンを飲みつくしました。 1918年11月11日、大戦はようやく終結しました時には、ランス市の98%が破壊され、4万戸の家の内残ったのはわずか40戸という有様でした。シャンパーニュの人口の半分以上が失なわれ、エーヌ県では3分の2を失いました。ブドウ畑にも大きな影響を受けました。ボルドーが被害を受けた1870年から20年も経ってやってきたフィロキセラ害が大戦中に拡大し、シャンパーニュ地方のブドウ樹を根こそぎ引き抜き、アメリカ産の台木で植え直さなければならない状況に至ったのです。 さらに悪いことに、大戦による経済低迷がシャンパーニュ地方は苦境に追い込みました。シャンパンは卓越し、カーヴにもシャンパンが溢れていましが、不況のため買い手がいなかったのです。

  • 2023年12月27日

歴史の波に翻弄された品格と親しみのメゾン G.H.マム・・・シャンパン・メゾン④

 G.H.マムは多くのシャンパン・メゾンの中でもその歴史の起伏に富んだ会社です。その変遷の中で生み出されたシャンパンの香り、口当たり、飲み心地の良さは「Soft&Mild」との形容が相応しいとよく言われています。コルトン・ルージュに代表される人気シャンパンを生んだG.H.マムの「そうだったのか」を紹介します。

  • 2023年12月26日

19世紀に花開いたシャンパン・・・シャンパンのそうだったのか!⑮

 19世紀に入ってようやく、シャンパンが「自然発泡」から抜け出し、「人工的な発泡」のワインに転換できるようになってきました。19世紀の前半は数々の技術的発展がもたらしたものです。●未熟なブドウからでもアルコール発酵を促進する技術●ワインを澄んだものにする(清澄化)技術●瓶の破裂を防ぐ技術●瓶を確実に安定的に密封する技術●シャンパンの甘辛調整そして、ナポレオン3世の時代にシャンパーニュはさらに繁栄の時を迎えました。その大きな要因は鉄道網の建設でした。製造面でも更なる発展がありました。シャンパンメーカーも19世紀初めにはわずか10社ほどでしたが今や300社以上と発展しました。

  • 2023年12月28日

ブドウ栽培農家の暴動・・・シャンパンのそうだったのか!⑯

20世紀が幕を開けると、シャンパーニュには募る不安が漂い始めました。鉄道は、メゾンにとっては武器でした。。鉄道輸送はシャパーニュ地方以外の安いブドウの入手をもたらし、メゾンが使い始めた一方で、ブドウ栽培者にとっては災いでした。 1911年1月には栽培者たちがメゾンを襲うという暴動が起こり、半年余り騒乱状態が続きました。また、シャンパーニュ地方の帰属問題を巡り、マール県とオーブ県は対立しました。時の政府は有効な策を打ち出せず、1911年2月にはオーブブドウ栽培者が大規模なデモを起こしました。またマルヌも1万人もの大群衆による暴動を起こす騒ぎになりました。 1927年になるまでこの紛争の収拾には時間がかかりました。第一次世界大戦が教訓となったのです。そして1941年、シャンパーニュ委員会(シャンパーニュ地方ワイン 生産同業委員会)が設立されました。

  • 2023年12月25日

ワインボトルが爆発!・・・シャンパンのそうだったのか!⑭

18世紀前半までシャンパーニュの酒造家たちは発泡性ワインには尻込みしていました。ワインの泡が瓶を爆発させ危険だったのです。 このころのガラス瓶は発泡性ワインの内圧に耐えられるものではあなく、1745年頃、瓶の破損数は3分の1に達し、ときには、カーヴのボトルの半数が破損してしまうこともありました。マルヌ県ですら、赤ワインが主体で、発泡性ワインは1/3に留まっていました。 1836年にフランソワが瓶の中で再発酵するワインの炭酸ガスの量を予知する実験に成功し、ようやく以前より危険な仕事ではなくなりました。